流祖夢想権之助について


流祖夢想権之助について


神道夢想流杖術の流祖夢想権之助は、[武稽百人一首]の中で「武道をば 神の夢想ぞ 権之助 自らゆるす 天下一の名」と詠まれていますし、寛文6年丙年弥生(1666年3月)に出た堤六左衛門坂行の「海上物語」にもその名が出て来ます。
それは、宮本武蔵と夢想権之助との出会いを述べ、仏教の修業をした武蔵が権之助を破ったという話で、その一部略を御紹介します。

*その器量人に勝れたる大男、太刀をさし本より末まで筋がねを渡したる四尺余りの木刀を持ち、我におとらぬ弟子共を8人も連れ、羽二重のひとえ羽織に大きな朱の丸を付し、肩先より帯下までに「兵法天下一、日本開山、無双権之助」と金を以って書いたものを着ていた。
初めは権之助の太刀が武蔵の袖の下、羽織の衿にその先が軽く当たるのであるが、次には武蔵に追い込まれ眉間を打たれる。ここで権之助は大いに非を知り武蔵の弟子となる。

「どのように強い者でも仏法の修業の力のない者は、土壇場にて臆して不覚をとるものなり」と武蔵は言っています。
また、武蔵は権之助を「天下一の無法者」と言ったともいわれています。
この天下一の無法ぶりもいつのまにか消え、兵法に対する考え方も一変していきます。
武蔵との試合は慶長の頃と言われておりますが、慶長の頃といえば、世は戦国から太平へと移り変わる時代、つまり、関ヶ原の戦いが終わり、大阪冬の陣、夏の陣と続いた後、江戸幕府約300年の平和が続く基盤が出来上がる頃であり、この時の世相を、若い「天下一の無法者」は、どのように感じたのでしょうか。
神道夢想流杖術の伝書のなかに、これを見ることが出来、「杖の心」を知ることが出来ると思います。

杖道の創始者である夢想権之助は神道夢想流秘伝で、次のように述べています。

*我が国においては剣術のみが武術であるとの考えが主流になっている。
しかし、人を殺さぬことを真理とする杖こそが武術の大本となるべきである。
その昔、天地開闢(かいびゃく)のとき、イザナギ、イザナミの尊が「天の矛」をもって大海原をかきまぜ、この大八卅(おおやしま)(日本国)を創られた。
この「天の矛」こそが棒(杖)であり神国日本の武を代表するものである。
日の神である天照大神も三剣を帯し武をたいへん尊ばれた。
五常(仁、義、礼、智、信)の道徳を守ることのみでは国を治めることは出来ない。武も必要であり武をもって国を治めるには、術が必要である。
よって、ここに一本の棒を用いた術を創立し志を持つ人々にこの武術を伝えるものである。

*剣をもって人を殺すことが武の本来の道ではない。
棒を持つ者は、人を殺さず任を果たし万事を得ることが出来る様にすべきである。
この書をもってこの様な考えを代々に伝える。
一心の祈りが神に通じ夢の中に2人の童子が現れ云う[先後全万人納意]この神勅を受け悟ることが出来た。

*口伝であれ書であれ奥義に変わるところが無い。
疑うことなく一心不乱に勤めよ。必ず勝利を得ること間違いなし。
任を果たして、これを磨くべきものである。

権之助の眼には、棒は無から有を生ずるための媒体であり、有を無にする為のものではないと写ったのでした。
即ち、人を殺すことを目的とした兵法は日本の兵法ではないというのです。
権之助自信の経験から、過去の自分の様な無法者が出現してくることは、避け得ないことと考えたのです。
しかし、たとえ無法者といっても共に天命を持ち生きて行く人間であり、相手を殺さず自分も殺されない兵法は無いものかと悩み、この兵法の創造に情熱を傾け、ついには「先後全万人納意」の勅を得て悟り、更に一層の工夫をこらして、先も後も角もない平等の中に、自由な動きをする、人を助け導く杖の兵法を生み出したのです。
そして、権之助はこの杖術こそが、我が国の武術の大本であると詠い、後の世に伝えようと数家の師範家を残したのです。

伝書に記されている杖道の古歌をいくつか附します。

敵の打ち太刀は 影さへなかりけり 我が稲妻の光満寿ゆへ
(免許より)

つけば杖 うてば長刀 持てば太刀 とにもかくにも はずれさりけり(免許より)

突けば槍 払えば長刀 持てば太刀 杖は かくにも外れざりけり(免許より)

勢がんの玉の光を忘れなば やみにも見ゆる 敵の在家は
(後目録より)



東京都杖道連盟TOPページへ戻る / 神道夢想流杖術紹介ページへ戻る